仮面学園 [学園オカルト]

◆・仮面学園(2000年)

監督 小松隆志  脚本 橋本裕志  原作 宗田 理「仮面学園」

出演 黒須麻耶  藤原竜也 栗山千明 大杉漣 渡辺いっけい
    小野麻亜矢 本田博太郎 石橋佑磨 鈴木ヒロミツ 磨赤児
    茂森あゆみ 

主題歌「ランブルフィッシュ」 DoAs 

◆・ストーリー

 ある日、いじめられていた段田が仮面をつけて登校してきた。
3日後、さらに数人が仮面をつけて現れた。有希(黒須麻耶)と貢(石橋佑磨)は、
招待された野々村の主宰するパーティーに行った事が切っ掛けで、「仮面工房」で
仮面を作っている堂島(藤原竜也)と知り合いになる。

 堂島は、仮面を被れば新しい自分になれるという。
やがて、仮面が流行して社会現象になる中、自殺した野々村の追悼集会に参加した事で、
2人は事件に巻き込まれていく。背後には「D」という文字が関係している事が判り、
複数の容疑者が浮かんでくる。その一人「DAIMON」(磨赤児)のファッションショーで、
仮面モデル殺人事件が発生したのを利用して、有希はモデルの代役になり、Dの正体を
暴こうとするが身に危険が迫って来る。

◆・レビュー

 序盤は不気味な雰囲気と仮面依存の非日常が異様な展開を期待させるのだが、
中盤から終盤に掛けては、仮面絡みの殺人事件の犯人探しに加えて「ヒロコ」に
なりたいという「偽ヒロコ」カリスマ願望の調査という展開になり、サスペンスドラマの
要素が全体を支配していき、ホラードラマの趣向は薄くなっていく。

 精神的に問題があったり変身願望の有る者が、仮面に依存する事で、ますます仮面に
のめりこむ。これは「弱者救済」ではなく「人間種族の中における自然淘汰」と考えたい。

 もし国家や民族として、仮面を被らないと発言や行動に自信が持てない等と言う習慣が
日常化したならば、弱肉強食の世界の中で、その民族は滅亡するだろう。素顔を晒して
相手の眼を観て、正々堂々と自分の言葉で自分の考えを表明出来ないようでは、韓国や
中国やロシアやアメリカに対して対等の立場で議論できずに、常に卑屈な民族として
従属していくだけである。

 仮面こそ人間の不平等さを救う物である。人間は仮面を被って初めて自由を獲得出来る。
このような意見は、仮面を販売する手段としてのセールストーク程度の重さしかない。
仮面を被っても決して自由にはなれない。また何を持って平等とするのか。常に支配する者
と、される者が居るのが世の常である。人間社会等は、その典型ではないか。仮面を被る
事で周囲に気兼ねせずに振舞えたり発言できたり、自由を得られると錯覚しているだけで、
実体は、神経を病んでいるキチガイ患者に過ぎない。

仮面を被る事で新しい自分⇒別の自分になれる、等と思うのは、一種の現実逃避にすぎず、
現在の自分に不満を感じ、別の人生を送り、別の形でこの世に存在したいという願望が
あるのだろうが、別の自分になれるのは仮面を被っている時だけなのだ。

 弱い精神力をカバーする為に仮面を被るのではなくて、体育会か応援団、あるいは自衛隊に
入隊して、激しい訓練と規律正しい日常生活で、心身ともに鍛えて健康で強い一人の人間に
なる道を選ぶのが正しい選択である。

【 体育会に入ろう、軍隊に入ろう、軍人になろう 】

 映画初出演の「ブギ―ポップは笑わない」では、ワイルドで破天荒なキャラクターを演じた
黒須麻耶だが、ここでは、より高校生らしさを出しつつも大人びた役を、映画出演第2作目
とは思えないほどの自然な振る舞いで、天才的な演技を見せてくれている。順調に成長して
「大女優」への道を歩いていくのではと期待されたのだが-――--―――――――
このまま永久に消えてしまうのは、日本映画・演劇界の重大な損失ではないだろうか。

 「死国」に続き、映画出演第2作目の「栗山千明」は「死国」では、あどけなさが残る初々しい
芝居だったが、ここでは存在感のある重要な役を演じている。また映画初出演の藤原竜也と、
今となれば、中々のキャスティングではないか。


 将来有望だが、まだ役者経験の少ない男女の新人・若手の精一杯の演技を、大杉漣、
渡辺いっけい、本田博太郎、磨赤児、鈴木ヒロミツ、といったベテランが周囲を固めて補佐役と
して上手くカバーしている作品である。

テロップに「杏さゆり」の名前が出て来るが出演シーンは不明である。

★・点数・80点(黒須麻耶が出てなければ40点)


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